前回に続き、格差シリーズ
今回は格差がなぜ良くないか、どのように格差になっていくのかを、おもに私の暮らしの中から見つめてみたい。
家庭内の環境よる変化
「病院に行く」か「治るまで寝るか」か
我が家の話だ。
子どもがちょっと体調を崩したりしたとき、私と妻とで対応がけっこう違う。
私はすぐ「病院行こうか」と言う。 でも、妻は「様子見よう」「寝たら治るかも」と言う。
なんでこんなに違うんだろう?と考える。 もちろん愛情の差じゃない。性格かもしれないけど、やっぱり育った家庭の文化の違いなのかなって思う。
私の母は保育士だ。 子どもを「預ける側」でもあったし、「預かる側」でもある。2つの視点を持っている人だ。 だからかもしれない。
熱や咳や鼻水――ちょっとした症状でもすぐ病院に連れて行ってくれた。 その結果、私はいまでも自分の症状でも子供のもすぐ病院に行く。
「病院に行くのが当たり前」な人間になった。
話は逸れるが、「だから貧弱なんだ」と言われたこともある。
病院に行くから貧弱になるのか、もともと貧弱だから病院に行く回数が増えるのか?
なんか、このへん、感覚ではわかるけど、理屈はまだうまく整理できてない。からいつか記事にしたいと思う。
自衛の角度
私は、「自衛」という言葉にちょっとネガティブな印象を持っている。
この自衛に対する「私の捉え方」は、こちらでもう少し詳しく書いた。
それなのに、いまの社会は、あまりにも多くの「自衛」を個人に求めすぎているように、
その自衛が、疑いもなく“当たり前のこと”として根づいてしまっているように感じる。
こんな意見が、堂々とまかり通っている。
なぜ、変わることを求められるのはいつも被害を受ける側なのか。
本当に変えるべきなのは、“加害する側の意識”と“それを支える社会の構造”の方じゃないかと思う。
「自衛」という言葉が使われる場面のなかには、
本来は「社会が果たすべき責任」や「加害側が変わるべきこと」を、
被害にあう人自身に押しつけてしまっているように感じる。
最近思うのは、「すぐ病院に行く」という行動も、ひとつの「自衛のスタイル」として受け取られているんじゃないか、ということだ。
でも、病院って本来「社会に守ってもらう仕組み」のはずだ。
それに頼ることまで自衛と呼ぶのは、どこか矛盾している気がする。
一方で、「寝たら治るかも」と様子を見る行動も、自分の治癒力を信じるという意味では、“自衛”だとも言える。
私はどちらかというと「子どもはもっと病院に行っていい」と思っている。もちろん、大人だってそうだ。ただし、限りある公的な医療資源のなかで、むやみに使われてしまうのはまた別の話。
自衛が過剰になりすぎてほしくない、という気持ちがある。
急にではなく、ゆっくり広がる格差

経験もお金でかう
子どもが「これやりたい」って言ったとき、やらせてあげられるかどうかって、結局お金の話は避けては通れいない。
たとえば、英会話、ダンス、ちゃれんじ(ベネッセ)などの、習い事。
クレーンゲーム、ガチャガチャ、縁日の綿菓子やお面……
続けることも、一度きりのことも。
「やりたい」「ほしい」という率直な気持ちに、どこまで応えてあげられるか。
その可否は、けっきょく親の経済状況に左右されてしまう。
これは贅沢か当然かって、自問することがよくある。
「子どもには我慢を強いたくない」という思いから、やれてないことに後ろめたさもあるし、やれてるときには「これって社会全体で見るとフェアじゃあない」って気持ちにもなる。
無料の公園だって、子どもたちは夢中で遊ぶ。
ただの砂場、堤防の砂利道。
そんな場所でも、全力で汗をかいている。
それなのに―
「もっと楽しい場所は、お金を出せばあるよ」という構造が、
いつの間にか、当たり前のように日常に入り込んできている気がする。
子どもの楽しさや経験が、資本主義の上に乗せられている。
私もそれを感じていながらも、そこから完全に降りることができない。
「ふつう」であろうとするために、「自衛」してしまっている自分がいる。
できることの差が、“わかること”や“楽しめること”の差につながっていく。
そしてその差が、やがて「ふつう」や「自衛」の基準そのものを、
じわじわと変えていってしまうのかもしれない。
季節の行事の実質的な外注化
我が家は、季節の行事を「家の中」でちゃんとやれていない。
たとえばクリスマス。ツリーは飾っていない。
ハロウィンも仮装はせず、お菓子を買うだけ。
ひな祭りも、家に雛人形はない。
でも、保育園や学校では、それなりに行事にふれているし、
ショッピングに出かければ、イベントの装飾や撮影スポットもあって、子どもはそれなりに楽しそうだ。
「まあ、それでいいか」と思ってしまう。
でもこれって、もしかすると「家庭で文化を再現する力」があるかどうかの差なのかもしれない。
いわゆる「文化資本」のひとつだ。
そして同時に、そういうことにコストをかけられるかどうか。
飾りを買う余裕も、飾るスペースも、正直そんなにない。
つまりこれは、お金の話でもある。
だけどやっぱり、「やる・やらない」って、じわじわと大きな違いになっていく気がしてきた。
行事そのものは、私も子どもも“知っている”。
でも、それがどんな意味を持つものなのか、説明できる自信はない。
たぶん、親よりも私、私よりも子どもと、少しずつ文化の輪郭が薄まってきているのかもしれない。
具体的な記憶や体験がなければ、文化資本は受け継がれにくいのだと実感する。
知ってるかどうかの「情報格差」
ちょっと話は変わる
知り合いと雑談の流れで「広告ブロッカー」の話になった。
彼は、出てくる広告に不快に感じながらも、広告ブロッカーを知らなかった。
私はYouTubeプレミアムやブラウザの広告ブロッカーに課金をしている。
–体験価値が変わるからだ。
反対に、格安SIMや光回線の乗り換えは支出を下げるために積極的にやっている。
–体験価値が変わらないからだ。
不要なサブスクや保険を見直すのも、同じような情報行動のひとつかもしれない。
性質が違うけど、どちらにも共通するのは「知っている人だけが得する構造」だということだ。
その時ふと思った。 これって、「知ってる/知らない」だけで体験の質が全然違うんだなって。 しかも、知らないままでいると、損してるのにも気づけない。
情報って、まさに“見えない格差だ。
そしてその差が、自分や子どもの「自衛力」になっていく。 でも、その自衛ってほんとうに「健全」なんだろうか。
それでも、考え続けていきたい

こういう差って、ほんとに目に見えにくい。
けど、「できること」の差、「選べること」の差が、じわじわと経験差になる。 そしてそれが、自信の差になったり、生きやすさの差になったりしていく。
病院にすぐ行ける子、行かないで育つ子。 ツリーを家で飾って祝ってもらった記憶がある子、ショッピングモールの装飾だけの子。 課金で安心を手に入れられる子と、できない子。 その全部が、いつのまにか「スタートラインの違い」になっていく。
ここまで書いておきいながら、 「防げることは防ぎたい」「できることはやっておきたい」と思ってしまっている。私は資産運用もしてるしベネッセやスイミングスクールにも投資している。
そんなこと考え出すと、私の行動全部が「不公平なんじゃないか?」って思えてきて、 でも一方では、「それを考える余裕があること自体が特権なんじゃないか?」っていう、無限ループにも入る。
「これって本当に普通?」 そう問い続けることが、もしかしたら、格差の連鎖をほんの少しでも断ち切る力になるかもしれない。
自分も「自衛する側」になってしまっている今、それでも何かできることはあるのか? 考えながら書いている。
次回は「知っている自分」に対する自責も含めて、情報格差について書こうと思います。






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