自衛について-自衛させる加害者側の論理-

私は常にカッコつけていたい

「自分のことは自分で守ろう」
ドラマや小説でも、もちろん現実でも良く見聞きするセリフ。

「自衛」
コトバンクによれば、次のように定義されています。
自分の力で自分を守ること 

私はこの言葉に、「人に頼らず 自分でなんとかしろ」という圧力を感じてしまう。
しかも、その圧力は、たいてい社会的に弱い立場の人たちに向けられている。

今回は「自衛」という言葉対して私が感じている事を書いていこうと思う。

自衛という言葉が持つ重み

私は「自衛」という言葉に、強い違和感を覚えている。

その理由のひとつは、この言葉が「自分のことは自分で守れ」という意味として決して少なくない人の中に受け止められてしまっているように感じるからだ。
本来「自衛」は、困難から身を守るための手段や工夫を指すはず
でも実際には、この言葉の重みが社会的に弱い立場の人たちにしわ寄せとして降りかかっているように感じる。

「実力主義」とセットで語られる自衛

「自分のことは自分で守れ」と言われる社会では、「実力がある人は守れる」「守れないのは努力が足りないから」という考え方もセットで語られがちだ。

いわゆる実力主義の考え方だと思う
一見すると、公平なように思えるかもしれない。

けれど、それはすでにスタート地点が違う人たちを無視してしまう。
 (という思いを格差シリーズの第一回で書いております)

たとえば、経済的な余裕、家庭の環境、学歴、性別や人種。
社会的なハンデを背負っている人いわゆる「自衛」に失敗したとき、果たしてそれは本当に実力不足や努力不足なんだろうか

政治哲学者マイケル・サンデルの著書『実力も運のうち』でも述べられているように、
「実力」と呼ばれるものの多くは、家庭環境、教育機会、人種国籍性別といった自分で選んだものじゃないもの、つまり運の中で包含されてる。
それなのに、「自衛できなかったのはあなたの実力不足」と言われるのは、やっぱり理不尽に感じてしまう。

自衛は加害者側の論理に聞こえる

たとえば性被害や、差別、貧困、いじめの問題。私としては、本来はそれを生み出す社会の構造や、加害してるの側が変わらなければいけないと思う。
でも実際には、被害を受ける人に「自衛が足りない」「危機管理が甘い」といった声が向けられることも少なくないし、いじめや性被害なども自己責任に帰着してしまう。

「自衛」という言葉が使われる場面のなかには、
本来は「社会が果たす責任」や「加害側が変わること」を、 被害のあう側に押しつけてしまっているように感じる。

性被害にあわないために、肌の露出の多い服は着るな。という 「マナー」
いじめられないために、本人のふるまいを丁寧に。という 「しつけ」
世間並みに暮らしたいなら、教育に投資をしよう。という 「常識」

こんな意見が、堂々とまかり通っている。

まっとうな意見に見えるかもしれない。
でも、なぜ、変わることを求められるのはいつも被害を受ける側なのか。

本当に変わるのは、加害する側の意識とそれを支える社会の構造の方じゃないかと思う。

しかも私は、自衛という言葉が声を上げにくい立場の人や、被害に気づいていない無自覚な人たちに責任を押しつけているように感じる。だからこそ強い違和感を抱いている。


マイノリティの声をマジョリティが聞いてあげてる構図

私がもっと深く問題だと思っているのは、マイノリティの声を聞くかどうかを、いつもマジョリティが決めているという構図だ。
たとえば、「女性の声を聞こう」とか、「LGBTQに配慮しよう」とか、「困窮している人を助けよう」といった話題は、
あくまでマジョリティや加害者側の人たちが、「聞く気になったとき」にだけ取り上げられる。

聞いてもらえるかどうかを、

当事者じゃない側が選んでいるというのが、すでに不公平だと思う。

そんなあやふやで不安定な社会のなかで、マイノリティの人たちは日々「自衛」を強いられている。


自衛が不要な社会って?

私自身、自衛をしている。必要に迫られて している。
男性ということもあり(女性に比べて)自衛をしなくていい立場でもある。
経済的な観点でいえば、自衛をしなくていい立場でこそないが、できる立場と環境にいる。いわゆるマジョリティだ。

でも、本当の意味で「自衛を強いられない社会になってほしい」と思っている。
何よりつらいのは、自衛しなくてもいい人たちが、
「自衛なんて当たり前でしょ」と無邪気に言っているだ。
それがどれだけ守られている側の発言なのか、自覚がないままに。

「自衛しないと生きていけない」世界ではなく、
「自衛しなくても生きていける」社会のほうが、本来は健全なはずだ。
社会の側が変わることで、個人に過剰な自衛を求めなくても済む世界に、少しでも近づけるのではないか。


まとめ

「自衛が必要な社会」そのものに問題がある。

でもそれ以上に、「自衛を強いられる人」と「自衛を語る側」に、こんなにも力の差があること。
それが私には、とても冷たく、不公平に見える。自衛という言葉は、まるで当然のように使われる。
自衛して安全圏に入った人が、過去の自分の努力や現在の立場を正当化するために、他者にも自衛を求める場面を、私は何度も見聞きしてきた。でも本当に、それでいいのだろうか。

守る術を持たない人たちに、その言葉を突きつけてはいないだろうか。

私たちは本当に「自衛」という言葉を使うとき、何を期待し、誰に責任を押しつけているのか?

自衛という言葉に違和感を持つこと自体が、私のわがままかもしれない
それでも、考え続けたいと思う。


参考資料:
親の所得・家庭環境と子どもの学力の関係-国際比較を考慮に入れて

家計における私教育投資と所得格差への影

【データで語る日本の教育と子ども】 第6回 「貧困の連鎖」を防ぐには―大学進学をめぐる日本の現

親の教育投資によるきょうだい間差別

コメント

タイトルとURLをコピーしました