今回は本の紹介です。タイトルは『ラディカル・マスキュリズム:男とは何か』
この本は、「男性とは何か」を、社会の構造や歴史、そして個人の心のあり方まで含めて丁寧に掘り下げていく一冊。
タイトルにある「マスキュリズム(男性主義)」という言葉自体、今の日本ではあまり印象がよくない。でも「元女性」である著者の周司あきらは、あえてその言葉を引き受けたうえで、「男性であること」をもう一度考え直すための旗印として掲げている。フェミニズムと対立するためではなく、むしろフェミニズムの成果を踏まえて、「男」を再構築しようとする姿勢が貫かれていました。
今回の記事は、読みながら書いた雑に書いた感想を文章を、そのままChatGPTにまとめてもらいました。
第1章 男らしさ
最初の章では、「男らしさ」とは何かが問われる。
この言葉は、私たちが思っている以上に強力な社会的装置だ。
「男らしくあれ」という圧力が、どれほど多くの男性を縛ってきたか。
著者は、「男らしさ」と「人間らしさ」を分けて考える必要があると言う。
トランス男性や父母それぞれの役割認識の違いに触れながら、「男であること」がどれほど他者の期待に影響されているかを描いている。
特に印象に残ったのは、「男らしさを手放すことが、人間らしさを取り戻すことでもある」という考え方だ。
男である前に、人である――当たり前のようで、難しいことだと思う。
第2章 身体
この章では、「身体」という視点から性別の固定観念を崩していく。
「性別はオスとメスしかない」「一度決まったら変わらない」という思い込みが、どれほど多くの人を生きづらくしているか。
ペニス崇拝、ヒゲ、徴兵制――いずれも“男の身体”に強さや支配の象徴を背負わせてきた歴史の断片だ。
読みながら改めて感じたのは、「男らしさ」は社会が男性の身体を利用して作り上げた“構造”なのだということ。
身体そのものはもっと自由で、脆くて、複雑なはずなのに、それを「男の身体」として記号化することで、社会は男性を支配の役割に押し込めてきた。
「男の身体を取り戻すこと」は、社会の期待を一度解体することでもある。
第3章 男性運動①――メンズリブと男性学
1970年代に登場した「メンズリブ」は、男性自身が家父長制に異議を唱える運動だった。
しかし著者は、その運動が“やらなくても死なない運動”であったと指摘する。
女性運動が「生きるための闘い」だったのに対し、男性運動は「特権を手放すための闘い」だった。
この温度差は大きく、やがて運動のエネルギーを失わせていった。
さらに、メンズリブ内部にも「正当な男らしさ」が残っていたという。
異性愛中心的で、性的少数者や障害者、外国人男性は排除されやすかった。
「男であることを問いながら、男らしいままでいたかった」――この矛盾が、運動を閉じさせたのかもしれない。
第4章 男性運動②――旧来のマスキュリズム
続く章では、フェミニズムへの反発として生まれた「男性権利運動」や右派的マスキュリズムが扱われる。
彼らは「男性差別をなくす」と言いながら、実際には家父長制を守っていることが多い。
「フェミニズムが男性を攻撃している」と語りつつ、伝統的な家族観やナショナリズムを強化していく。
著者はそうした“保守的マスキュリズム”を批判しながらも、「男性の問題」を封印するわけにもいかないと言う。
ここで見えてくるのが、タイトルにもある「ラディカル・マスキュリズム」の立場だ。
それは「男性を中心に語ること」をやめるのではなく、「どう中心であることを手放すか」を考える思想である。
つまり、“男性であること”を隠すのでも誇るのでもなく、別のかたちで社会に関わり直すための道筋を示している。
第5章 ヘゲモニー(支配構造としての男性性)
この章が一番面白かった。
本書の中でも最も核心に迫る部分だったと思う。
ここでは「ヘゲモニー(覇権)」という言葉を通して、男性がどのようにして社会の中で支配的な立場を維持しているのか、そしてそれがどのように“無自覚”に再生産されているのかを明らかにしていく。
フェミニズムの視点から見れば、「男性」とは「抑圧者」「権力者」「家父長制から利益を得る者」と定義される。
多くの男性は自分を“権力者”だと感じていないかもしれないが、著者が示すのは「権力とは、本人の意思ではなく周囲の承認によって生まれる社会的な構造」だということだ。
ある男性が「すごい」「頼れる」「上に立つべき」と評価されるとき、その称賛や期待こそが彼を“権力者”として成立させる。
つまり、権力は個人の中にあるのではなく、人と人のあいだの関係の中でつくられていく。
この視点は、とても示唆的だった。
僕たちは「権力」と聞くと、会社の上司や政治家のような“明確な強者”を思い浮かべがちだ。
でも実際には、日常的なやり取りの中で、「男のくせに」「やっぱり頼りになるね」という言葉によって、無数の小さな“男の特権”が再生産されている。
この“気づかずにいられる特権”こそが、ヘゲモニーの本質なのだ。
著者は、レイウィン・コンネルの理論をもとに、男性特権を「権力」「生産」「感情」「象徴」という4つの領域に整理している。
| 構造領域 | 男性の利益(特権) | 男性の不利益(交換条件・コスト) |
|---|---|---|
| ①権力関係 | 政治・経済・家庭などあらゆる意思決定の場で男性が主導権を握る。暴力装置(軍・警察)を支配。レイプやDV被害から相対的に自由。 | 男性は犯罪・暴力・逮捕・死刑など「暴力の標的」となりやすい。支配構造を維持する責任を負う。 |
| ②生産関係 | 女性より高賃金・昇進機会が多く、富の管理権を持つ。女性の無償労働(家事・育児)に依存。 | 危険で過酷な労働を担い、唯一の稼ぎ手としての重圧を受ける。労働スキルの陳腐化リスク。 |
| ③感情関係 | 感情表現を抑制することが「成熟」「理性」として称賛される。 | 感情を表現できず、孤立しやすく、他者との共感関係が築きにくい。 |
| ④象徴関係 | 文化・言語・メディアの中で「男性=普遍的」「女性=特例」として描かれる。 | 「男らしくあること」を常に演じ続けるプレッシャー。逸脱すると「男でない」と排除される。 |
これら4つは、単に「男性が得をしている」「損をしている」という話ではない。
なお、列挙している不利益は、広く言えば、利益の諸条件だとある。
同時に、男性自身をも縛っている。「強くあれ」「泣くな」「支えろ」といった規範の裏で、男性は感情表現や弱さを失い、人間らしい関係を築くことが難しくなる。
著者はここで、「共犯的な男性性」という言葉を用いる。
つまり、支配的な男性像に直接手を貸していなくても、その秩序の恩恵を受け、黙認している時点で共犯になってしまうということだ。
「自分は差別なんてしていない」と言いながら、職場で女性に無意識に雑務を任せたり、「男の方が得だよね」と笑って済ませたりする――そうした日常的な行為も、実は構造を支える一部になっている。
この章で特に印象に残ったのは、著者が「ヘゲモニーなき男性」についても言及していた点だ。
すべての男性が権力者ではない。
貧困、障害、性的指向、国籍などによって、むしろ“弱者の位置”に置かれる男性もいる。
しかし、それでも「男性である」という理由だけで得ている無意識の優位性がある――この複雑さを、著者は「複合特権」と呼ぶ。
この視点はとても重要だと思う。
男性が「自分も生きづらい」と語るとき、その苦しさの中にも、他者に対する無意識の優越が入り混じっている。
だからこそ、単に「男もつらい」で終わらせず、その構造を見つめ直すことが必要になる。
読後に残った感覚は、「権力とは、他人の目の中にある」ということだった。
僕たちは“誰が上か”を判断するとき、自分の中の価値観よりも、他人の承認を基準にしている。
だからこそ、ヘゲモニーはとても根深く、簡単には崩れない。
けれど、その構造を意識できるようになるだけでも、少しずつ社会の見え方が変わっていく――著者の言葉には、そんな静かな希望がにじんでいた。
第6章 ミサンドリー(男性嫌悪)
最終章では、「ミソジニー(女性嫌悪)」と並べて、「ミサンドリー(男性嫌悪)」が論じられる。
著者は、ミサンドリーを“男性への嫌悪”だけでなく、“男性自身の自己嫌悪”としても読み解いていく。
同性愛者の男性が「男であること」を否定的に感じざるを得ない社会構造、「弱者男性」という語りが男性を弱者として固定してしまう危うさなど、問題は複層的だ。
印象的なのは、「ミサンドリーをもたないポジティブな男性像」を探る姿勢だ。
それは、女性を守る男でも支配する男でもなく、他者と対等に生きる男。
家父長制を外から攻撃するのではなく、内側から少しずつ蝕んでいくような男性像。
“優しくてラディカルな男性”の可能性が、そこに描かれている。
おわりにをよんで
著者は「マスキュリズム」という言葉をあえて使った理由を「賭けだった」と語る。
確かにこの言葉には、男性中心主義や反フェミニズムの響きがある。
けれど、本書で語られる「ラディカル・マスキュリズム」は、むしろその逆だ。
旧来の男性支配を乗り越え、男性自身が新しい形で自分の性と折り合いをつけるための思想だ。
「男であること」を守るためではなく、「男であること」に縛られないためのマスキュリズム。
その逆説が本書の魅力であり、挑戦でもありました。
感想
ここからは私の言葉です。
ChatGPTくんまとめてくれてありがとう!
読み終えてまずこの本は「男性のための本」というより、「人間としてどう生きるか」を問う本だと感じました。
男性であることの特権と痛みを、どちらも無視せずに見つめることにまっすぐな誠実さが必要だと強く感じました。「男はつらい」と被害者になるでもなく、「男は悪い」と自己否定する(めちゃくちゃしていた)でもなく、もっと静かな「どう生きたいか」という問いを提示している。
自己否定は悪悪循環を作り出すってことに自覚的になれただけでもこの本を読んだ価値は大きいです。
男らしさを手放すことは、自分を失うことではなく、人間として再び立ち上がること。
「ラディカル・マスキュリズム」は、フェミニズムに対抗する思想ではなく、その延長線上にある「もうひとつの解放」だと思いました。
女性解放が社会の半分を救ったとすれば、男性解放はそのもう半分を救うものかもしれない。
そして、最終的にすべての人間が自由になることを目指していきたいです。


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