大人になって、「格差」という言葉を意識するようになった。
そういう人は、決して少なくないと思う。そして「なんとなく良くないもの」として感じてはいる。
でも、
「格差って何ですか?」と聞かれて、すっと説明できるだろうか。
それがもし子どもからの問いだったら、なおさら難しい。
私の場合、子供に対して少ない語彙で説明しようとすると、その“なんとなく”がすぐに行き詰まってしまう。
大人なら察してくれることでも、子どもには通じない。
だからこそ、「子どもに伝えるならどう言うか?」という視点で考えてみる。
これは、私自身の理解を深めるための——まなびのあしあとです。
この記事では、まず「格差とは何か」をあらためて考えながら、自分の中の感覚を整理することを目的としてます。
そしてその中で、「もし子どもに説明するなら?」という視点で書いてます。
「格差」を子どもに説明するとしたら
さっそく、私ならこう話すかもしれない。
ある地域で、サッカーの試合があるとします。
Aチーム:毎週サッカー教室に通っていて、プロと同じようなスパイクとユニフォーム。おうちの人が練習も応援もしてくれます。
Bチーム:部員も少なくて十分な練習ができず、履いているのは運動靴。応援には誰も来ません。
このとき、Bチームが勝つ可能性はゼロじゃないけれど、スタート地点には明らかな差があります。
重要なのはこの差は、ただの「ちがい」ではないということ。子どもたちの「がんばり」や「やる気」ではなく、環境の違いから生まれている。
「絶対的貧困」と「相対的貧困」
貧困にはどのような種類があるのか。
国連(貧困を無くそう)や世界銀行(第2章:貧困の定義)などの国際機関では、貧困を「絶対的貧困」と「相対的貧困」に分けて考えるのが一般的とされている。
格差を考えるうえで、まず押さえておきたいのが、この2つの概念だ。
●絶対的貧困
生きていくのに最低限必要な食料・水・住居・医療が不足している状態。
➡ 世界銀行の定義によれば、1日2.15米ドル未満で生活する状態が該当する(2022年改定)
●相対的貧困
その社会の平均的な生活水準と比べて、経済的・文化的に著しく不利な状態。
➡ OECDでは、国民の「等価可処分所得の中央値の50%未満」で生活する状態を相対的貧困と定義している。
どちらも深刻な問題であり、軽視するべきではない。ただ、私としては絶対的貧困のほうがより切実な問題として存在している、という感覚がある。
しかし今回の格差シリーズでは、相対的貧困に焦点を当てて話を進めていきたい。
先進国である現代の日本において貧困問題は相対的貧困の文脈で語られることが多い。
一見、日常生活が送れているように見えても、教育・福祉・医療・情報・人間関係といった「社会参加のための土台」が整っていないことがある。
この相対的貧困は、本人の能力や努力とは関係なく、機会を奪っていく。そしてその影響は、目の前の本人だけでなく、次の世代にまで及ぶことがある。
これこそが、いま自分たちが直面している格差の本質のひとつだと感じている。
| 項目 | 絶対的貧困 | 相対的貧困 |
|---|---|---|
| 基準機関 | 世界銀行 | OECD |
| 定義 | 生存に必要な最低限の生活を下回る状態 | 社会の平均水準と比べて著しく不利な状態 |
| 具体的な数値 | 1日2.15ドル未満(2022年改定) | 等価可処分所得の中央値の50%未満 |
| 主な対象地域 | 主に途上国 | 主に先進国 |
| 特徴 | 命の危機に関わる | 社会参加や将来の選択肢に影響 |
「格差」は、広く、そして見えにくい
冒頭のサッカーの例にもあったように、格差は決して「お金があるかないか」だけでは語れない。
たとえば、こんな違いがある——
- 食べもの:コンビニや外食が日常的な環境と、季節の野菜や郷土料理が自然と食卓に並ぶ環境。
それは栄養や健康だけでなく、文化や暮らしの豊かさにもつながる。 - 生活空間:静かに本を読んだり、ゆっくり話したりできるリビングがあるかどうか。
部屋の広さや数よりも、リビングで「ここにいていい」思える空気があるかどうか。
落ち着いて過ごせる場所があることは、安心感の土台になる。 - 会話:小さいころから、どれだけ言葉をかけあっているか。
何気ない会話の積み重ねが、自己肯定感の差となってあらわれてくる。 - 健康:しんどいときに、すぐに病院へ行けるかどうか。
「気合で乗り越える」しかない環境と、「大丈夫?」とすぐ声をかけてもらえる環境とでは、安心感そのものが違う。
こうした生活の条件が少しずつ積み重なることで、知らないうちに「経験の差」が生まれ、やがて「未来の格差」へとつながっていくと感じます。
しかも、この差は、本人の努力や意欲だけでどうにかなるものばかりではない。
まとめ|「格差」は、たった一つの場面では測れない
「がんばれば報われる社会」は、たしかに理想だといえる。でも現実は虚構だともう。
現実には——
「どこで生まれ、どんな環境で育ったか」によって、同じ努力(そもそも同じ努力ができない)が違う結果を生んでしまう。
「格差」とは、ただの数字の差や所得の差ではない。
それは、スタートラインの違いであり、
見えにくいハンデの存在であり、
社会が個人にどれだけの選択肢を許しているか——その幅の差なのだと思う。
第2回では、この「格差」がなぜ問題なのか。
放っておくことで、どんな影響が生まれるのか。
少しずつ、書いていきます。




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