第2回|格差はどのように広がるか ――日常のちいさな“ちがい”が、次の「スタートライン」になっていく

私は常にカッコつけていたい

前回に続き、格差シリーズ
今回は格差がなぜ良くないかどのように格差になっていくのかを、おもに私の暮らしの中から見つめてみたい。

家庭内の環境よる変化

「病院に行く」か「治るまで寝るか」か

我が家の話だ。
子どもがちょっと体調を崩したりしたとき、私と妻とで対応がけっこう違う。
私はすぐ「病院行こうか」と言う。 でも、妻は「様子見よう」「寝たら治るかも」と言う。

なんでこんなに違うんだろう?と考える。 もちろん愛情の差じゃない。性格かもしれないけど、やっぱり育った家庭の文化の違いなのかなって思う。
私の母は保育士だ。 子どもを「預ける側」でもあったし、「預かる側」でもある。2つの視点を持っている人だ。 だからかもしれない。
熱や咳や鼻水――ちょっとした症状でもすぐ病院に連れて行ってくれた。 その結果、私はいまでも自分の症状でも子供のもすぐ病院に行く。

「病院に行くのが当たり前」な人間になった。

話は逸れるが、「だから貧弱なんだ」と言われたこともある。
病院に行くから貧弱になるのか、もともと貧弱だから病院に行く回数が増えるのか?
なんか、このへん、感覚ではわかるけど、理屈はまだうまく整理できてない。からいつか記事にしたいと思う。

自衛の角度

私は、「自衛」という言葉にちょっとネガティブな印象を持っている。

この自衛に対する「私の捉え方」は、こちらでもう少し詳しく書いた。

それなのに、いまの社会は、あまりにも多くの「自衛」を個人に求めすぎているように、
その自衛が、疑いもなく“当たり前のこと”として根づいてしまっているように感じる。

こんな意見が、堂々とまかり通っている。
なぜ、変わることを求められるのはいつも被害を受ける側なのか。
本当に変えるべきなのは、“加害する側の意識”と“それを支える社会の構造”の方じゃないかと思う。

「自衛」という言葉が使われる場面のなかには、
本来は「社会が果たすべき責任」や「加害側が変わるべきこと」を、
被害にあう人自身に押しつけてしまっているように感じる。


最近思うのは、「すぐ病院に行く」という行動も、ひとつの「自衛のスタイル」として受け取られているんじゃないか、ということだ。
でも、病院って本来「社会に守ってもらう仕組み」のはずだ。
それに頼ることまで自衛と呼ぶのは、どこか矛盾している気がする。

一方で、「寝たら治るかも」と様子を見る行動も、自分の治癒力を信じるという意味では、“自衛”だとも言える。
私はどちらかというと「子どもはもっと病院に行っていい」と思っている。もちろん、大人だってそうだ。ただし、限りある公的な医療資源のなかで、むやみに使われてしまうのはまた別の話。
自衛が過剰になりすぎてほしくない、という気持ちがある。


急にではなく、ゆっくり広がる格差

経験もお金でかう

子どもが「これやりたい」って言ったとき、やらせてあげられるかどうかって、結局お金の話は避けては通れいない。

たとえば、英会話、ダンス、ちゃれんじ(ベネッセ)などの、習い事。
クレーンゲーム、ガチャガチャ、縁日の綿菓子やお面……
続けることも、一度きりのことも。
「やりたい」「ほしい」という率直な気持ちに、どこまで応えてあげられるか。
その可否は、けっきょく親の経済状況に左右されてしまう。

これは贅沢か当然かって、自問することがよくある。
「子どもには我慢を強いたくない」という思いから、やれてないことに後ろめたさもあるし、やれてるときには「これって社会全体で見るとフェアじゃあない」って気持ちにもなる。

無料の公園だって、子どもたちは夢中で遊ぶ。
ただの砂場、堤防の砂利道。
そんな場所でも、全力で汗をかいている。

それなのに―
「もっと楽しい場所は、お金を出せばあるよ」という構造が、
いつの間にか、当たり前のように日常に入り込んできている気がする。
子どもの楽しさや経験が、資本主義の上に乗せられている。
私もそれを感じていながらも、そこから完全に降りることができない。
「ふつう」であろうとするために、「自衛」してしまっている自分がいる。

できることの差が、“わかること”や“楽しめること”の差につながっていく。
そしてその差が、やがて「ふつう」や「自衛」の基準そのものを、
じわじわと変えていってしまうのかもしれない。


季節の行事の実質的な外注化

我が家は、季節の行事を「家の中」でちゃんとやれていない。

たとえばクリスマス。ツリーは飾っていない。
ハロウィンも仮装はせず、お菓子を買うだけ。
ひな祭りも、家に雛人形はない。

でも、保育園や学校では、それなりに行事にふれているし、
ショッピングに出かければ、イベントの装飾や撮影スポットもあって、子どもはそれなりに楽しそうだ。
「まあ、それでいいか」と思ってしまう。

でもこれって、もしかすると「家庭で文化を再現する力」があるかどうかの差なのかもしれない。
いわゆる「文化資本」のひとつだ。

そして同時に、そういうことにコストをかけられるかどうか。
飾りを買う余裕も、飾るスペースも、正直そんなにない。
つまりこれは、お金の話でもある。

だけどやっぱり、「やる・やらない」って、じわじわと大きな違いになっていく気がしてきた。
行事そのものは、私も子どもも“知っている”。
でも、それがどんな意味を持つものなのか、説明できる自信はない。
たぶん、親よりも私、私よりも子どもと、少しずつ文化の輪郭が薄まってきているのかもしれない。
具体的な記憶や体験がなければ、文化資本は受け継がれにくいのだと実感する。


知ってるかどうかの「情報格差」

ちょっと話は変わる
知り合いと雑談の流れで「広告ブロッカー」の話になった。
彼は、出てくる広告に不快に感じながらも、広告ブロッカーを知らなかった。

私はYouTubeプレミアムやブラウザの広告ブロッカーに課金をしている。
体験価値が変わるからだ。

反対に、格安SIMや光回線の乗り換えは支出を下げるために積極的にやっている。
体験価値が変わらないからだ。
不要なサブスクや保険を見直すのも、同じような情報行動のひとつかもしれない。

性質が違うけど、どちらにも共通するのは「知っている人だけが得する構造」だということだ。

その時ふと思った。 これって、「知ってる/知らない」だけで体験の質が全然違うんだなって。 しかも、知らないままでいると、損してるのにも気づけない。


情報って、まさに“見えない格差だ。
そしてその差が、自分や子どもの「自衛力」になっていく。 でも、その自衛ってほんとうに「健全」なんだろうか。

それでも、考え続けていきたい

こういう差って、ほんとに目に見えにくい。
けど、「できること」の差、「選べること」の差が、じわじわと経験差になる。 そしてそれが、自信の差になったり、生きやすさの差になったりしていく。

病院にすぐ行ける子、行かないで育つ子。 ツリーを家で飾って祝ってもらった記憶がある子、ショッピングモールの装飾だけの子。 課金で安心を手に入れられる子と、できない子。 その全部が、いつのまにか「スタートラインの違い」になっていく。

ここまで書いておきいながら、 「防げることは防ぎたい」「できることはやっておきたい」と思ってしまっている。私は資産運用もしてるしベネッセやスイミングスクールにも投資している。
そんなこと考え出すと、私の行動全部が「不公平なんじゃないか?」って思えてきて、 でも一方では、「それを考える余裕があること自体が特権なんじゃないか?」っていう、無限ループにも入る。

「これって本当に普通?」 そう問い続けることが、もしかしたら、格差の連鎖をほんの少しでも断ち切る力になるかもしれない。
自分も「自衛する側」になってしまっている今、それでも何かできることはあるのか? 考えながら書いている。

次回は「知っている自分」に対する自責も含めて、情報格差について書こうと思います。

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