先日、Xでこんな投稿を見かけた。
怖かった。
この漫画に「だいたいの男は共感する」と添えるような言い方が、“これが普通なんだ”という空気をつくってしまう。
だからこそ、私はそれに違和感を覚えた。
この投稿は、以下のポストを引用して投稿されていた。
この真っ当な意見に対して、「いや、男性はこう思うんだよ」と返すような流れに、私は強い違和感と、正直ムカツキを覚えた。
これが、今回のムカツキノタネです。
私は、漫画の画像の投稿 に対して、次のように引用リプをした。
なぜこう感じたのか。なぜ引用したのか。ちゃんと書いておきたいと思った。
どこにムカツキがあったのか
漫画の中で描かれているのは、男性が女性を「性的消耗品」としてごく当然のように語る場面だった。
その語り方は、女性の若さや出産可能性、さらには“耐用年数”までを、まるで消費財を選ぶかのように数値化していた。
「女の若さって、男で言えば金なんで」
「女の老いは、男の貧乏なんで」
「10年抱き続けてもなお若いって最強だよな」
……気持ち悪くないだろうか?
何なんだよこの語彙は、って思いました。
しょうじき、むかつきました。
たとえば私は、20歳という年齢の人間は、男女問わずまだ社会的にも未熟な段階にあり、守られる側であってほしいと思っている。
仕事や人間関係、恋愛において、自己決定の幅がまだ狭く、影響を受けやすい年齢だからだ。
なのに、この漫画ではその年齢の女性がすでに「男にとっての投資対象」として描かれ、
将来性や従順さを見込んで“今のうちに押さえる”ような視点で語られている。
そこに女性の感情や意思は見当たらない。
あるのは、「抱けるかどうか」「産ませられるかどうか」「自分にとってどれだけ得か」だけ。
あたかも、夫婦としてのコミュニケーションが“セックスしかない”かのような描かれ方だった。
こうした視点が、漫画という娯楽の中にさらっと紛れてしまうことと、それに対して「だいたいの男は共感する」と言われてしまうこと。
そしてなにより、その空気が「これが普通でこれが常識これが現実」だと固定化してしまう。
私はそこに強い違和感とムカツキを覚えた。
人ではなく、モノを見てしまう社会の目線
女性を“若さ”や“産む力”といった条件だけで測り、「何歳なら得か」「何年もつか」といった基準で語る視点。それは無意識のうちに持ってしまってる人、いると思う。
だけどそれは、相手を人間としてではなく、スペックで評価される「製品」のように見ているのと変わらない。
そこには、相手の気持ちや人生、選択の自由といった大切なものがごっそり抜け落ちている。
たとえば、あらゆる広告で「20代前半の女性」が選ばれ続けること。
表彰の場で「若くて従順そうな女性」が花束を渡す役になること。
そんな日常の積み重ねが、“若さ”を価値として消費する感覚を、私たちの無意識に刷り込んでいく。
その感覚が広がることで、恋愛や結婚の場面でも、
女性は「選ばれる側」「若くないと価値がない側」に固定されていってしまう。
実際、すでにそうなっている部分もあるように感じる。
それは、ただの男女間の不公平さを超えて、人間としての尊厳を傷つける視点だと思う。
「なんとなくわかる。」という無自覚な共感が、社会の構造を支えている
私は普段、個人よりも社会の構造や制度に対してムカつくことが多い。
でも最近は、その構造を成り立たせて支えている人々の価値観や感覚――つまり私たちの「なんとなく共感しちゃう」内面にこそ、声を届ける必要があるように思っている。
この漫画もそうだ。
露骨にひどい内容に見えるけれど、それでも「あるある」と感じてしまう人がいる限り、
それは構造の一部として、社会に機能してしまうと思う。
だから僕は、「いや、違う」と言いたい。
このタネが、いつか芽吹く日を願って
フィクションだから許される?
ただの冗談?
たしかに表現の自由はある。
でも、それは人間をモノ扱いすることに慣れてしまっていい理由にはならないはずだ。
私は、男性の一人として、この表現に共感しない。
こうした視点は、そろそろ見直されてもいいんじゃないかと思っている。
同じように感じている人が、もっと声を上げてくれたら嬉しい。
そして、「男性ってだいたいこうでしょ?」と言われたときに、ちゃんと「違う」と言える人が増えていったらいいなと思う。
最後に。このムカツキは、僕にとって“タネ”だと思っています。
誰かの若さや存在を「消費」するような目線に、違和感を覚えたこと。
それを見過ごさずに、言葉にしたこと。

いまはまだ小さなタネだけど、こういう違和感を持つ人が少しずつ増えていけば、
いつか芽吹いて花が咲き、もっと優しい風景が広がると信じています。



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